ICHI IKEDA PERSONAL HISTORY 1943~2017
「池田一」という流れ
1943 大阪府吹田市生まれ
1958 大阪府立茨木高校の入試に、2番の成績で合格。入学直後、掲示板に名指しで勧誘され、
バレーボール部に入部。
1961
大阪府立茨木高校を卒業し、京都大学工学部に入学。新設の高分子化学科の第一期生となる。その秋に、京大の劇団風波に入団し、演劇活動にも取り組む。初舞台は、『西陣の歌』という社会主義リアリズムの舞台であった。
1962
60年安保闘争後の 「仮眠の季節」といった時代。その中で、サルトルなどの存在論に影響を受け、実存主義的なものに傾斜していった。
1965
京都大学工学部高分子化学大学院の試験に、首席で合格。放射線重合の岡村研究室に、在籍。
1966
新しく設立した演劇企画「薔薇」の創立メンバーに。サミュエル・ベケットやイオネスコなどのアンチ・テアトロばかりを上演する劇団で、美術監督に。特にベケットの『勝負の終り』の大掛かりな装置は、評判を呼ぶ。
一方、日本高分子学会で『β-プロピオラクトンの光重合』に関する研究を発表する。
1967
大学院博士課程へ。「芸術と科学の両立」を目指すが、劇団が経済基盤を求めて、静岡・富士市に移転。選択を迫られ、周囲の期待に反して、演劇を選択。劇団は、富士市での塵紙工場の経営をめぐって、「経済優先か、表現優先か」で内部分裂。東京へ。
1968
東京での活動を開始。美術と演劇を結合させた、マルチ・プレイ・グループ「円劇場」を創立。アンダーグランド全盛の中に、そのラジカルな開放感はアンダーグランドをも逸脱した越境的な活動として、異彩を放つ。
1969
マルチ・プレイNo.3『仮象・殺人ゲーム』では、多相な空間が相互作用し、場が沸騰し、観客も一緒になって新宿の街中へのパレードに発展する。----さまざまなジャンルの人々による「アナーキーな関係体」(美術手帖1972.10)と評される。
1970
海面に200mのビニール風船を使って線を引く『N0N - HORIZONTAL LINE 水平線など くそくらえ!』を発表。一貫して価値の固定化を嫌い、非定形・非固定の「流れる表現 FLOW WORK」の重要性を主張する。
1971
75人乗りの大型バスを使っての、『東海道メガロポリス・バスシアター』を実現。乗り降り自由な「動く共同体」が、東京ー姫路間を45日かけて往復する。
1972
東京湾にある無人島・浮島で、岩肌に掘られた洞窟に宿泊して、野外劇『KINGDOM』に取り組む。「この無人島から、東京の、そして日本の何を見返しえたのか?」(美術手帖1972.11)
1973
『永久演劇への志向』という小文を、日本読書新聞(1973.4.30)に発表。「インカ文明の遺跡がもつ表面積を、演劇の彼岸に奪おうと考えている」と書く。
1974
『卵生の演劇』を、雑誌等に発表。「誕生と終末の一大虚構を一瞬裡に垣間見せてくれる轟音と砂塵のドラマ」というイメージを、境界概念を平和的に消滅させるモデルとして提案する。父・定吉が死亡、行年74歳。長女・麻子が誕生。
1976
ウガンダとケニアの国境に住む『イク族』を、我々の未来社会の悲しい雛形として、劇化に挑戦。台本のない即興的な劇づくりに向かう。
母・はる、他界。大阪の家の後継ぎとして、東京を離れるかどうかで、悩む。
1977
あらゆる制度に組みしない『PASS』宣言を発表。'68~'77の記録・執筆文・メモなどを集め構成した、自家本『神と人の間』を製作。長男・喬が、誕生。
1978
『イク族』上演中止後、公演中心の劇団活動を停止し、ワークショップ等の根深い展開を軸にした、第二次円劇場を発足。
1979
アートシアター新宿で、『テイグ氏の記念日』を上演。その案内状に、「ここ一、二年は、暗澹たる時代を制圧してきた<制度としての芸術>から、根源的な芸術の回復を目指した<営為としての芸術>への踏み出しであった」、と書く。
1981
演出家廃業宣言。自らの、その時の位置について。「言葉も通常の表現手段も蒸発してコミュニケーションの役に立たない。アジアの何処かの、人で溢れ、土ぼこりが沸き立ち、人が容易に土に帰っていってもいい路傍」で、展開したボイス・パフォーマンス『WORDLESS SOUND』が、表現の転機となる。
1982
アートシアター新宿を拠点に、オープンスタジオ「G-day PLAN」を開催。
正一(まさかず)から、一(いち)へと改名。プライベート・マガジン『P.M.1』を発刊し、「いま、第一義の表現とは?」と問いかける。
1984
多摩川での『RIVER PLAN』を開始。水面をピアノの鍵盤に見立てた『WATER PIANO』を発表。パフォーマンス・マガジン『P.M.2』を発行する。近代の物質文明に警告を発し、「もの以後の文化=ポスト・オブジェ・カルチャー」を提案する。
1985
右足の大腿骨頸部骨折で、約2ヶ月間入院。退院後、杖をついてのパフォーマンス『WAVING ROAD』を発表する。「---池田の楽天と悲観の間のダイナミックな転移---」という批評(長尾一雄/邦楽の友)
檜枝岐パフォーマンス・フェスティバルで、川の中州に掘った十字形の青い水の中から、自然と交感するパフォーマンス『Earth-Up-Mark』を発表。
1986
ギャラリーなつか(東京)の個展で『WATER-PLANE』を開始。「池田のアクションは、水から生命へ、赤子から超人へ、そして人類の創生からその終末への目のくらむような長時間を、数十分間に早回しして見せているかのようである」(粉川哲夫/共同通信1986.4)
1987
ソウルでの土と水を使った『ACTION-TEXTILE 行為の織物』を発表。パフォーマンス翌日、骨折箇所に激痛が走り、長い間松葉杖での活動を余儀なくさせられる。
横浜・港北区からの要請に応えて大倉山記念館の前庭に設置した『Water Mirror 水鏡』は、代表作のひとつとして、各地での設置へと発展。
ニューヨークのパフォーマンス・スペースの老舗であるフランクリン・ファーネスから、「100余名の応募者の中から選んだ10人のパフォーマンス企画の中に、あなたを選抜した」という通知を受け取る。
1988
Asian Cultural Councilから、フェローシップ・グラント。モントリオール、オタワでパフォーマンス。ナイヤガラ瀧から噴出する水煙、先に広がる雲、局所的な雨という循環のパノラマから、「With the Water as a Planetary Network」のイメージを生む。ニューヨークのフランクリン・ファーネスでは、ハドソン川とイースト川の水を使った『Water Mirror in N.Y.ニューヨーク水鏡』プロジェクトを発表。
1989
[Seoul-Tokyo-New York] Art Projectを発足。「東方からの提案」をテーマに、ソウルで韓国との共同プロジェクトを展開。その時発表した『EARTH DRAWING』では、漢江の河原に埋めた100枚のキャンバスに記録された「地球の出来事」を朗唱した。全てのパフォーマンスの常識を打ち破った、と評価される。
1990
[Seoul-Tokyo-New York] Art Projectの東京プログラム、[Rejuvenation From the East]を主催。出品作家としては、水槽の中の沸き立つ湯気で『Blue Codes: INDIVIDUAL / NATION / EARTH』の3册の本を書く作品を発表。「 自然のプロセスがキャンバス上に染み痕跡化していく状況を創ることで、池田は自然から『テキスト』を引き出す」(DEREK JONES/ASAHI EVENING NEWS 1990.4.13)
1991
N.Y.ダンス・カンパニー[Kei Takei's Moving Earth]全米ツアーの、空間デザインを担当。フロリダの河畔で、200メートルの布を泥染めし、『EARTH LINE』を制作。ミネアポリスでの24時間パフォーマンスで、「もうひとつの道」として提示する。
21回サンパウロ・ビエンナーレに特別招待され、メイン会場に22mX10mの作品『Floating Earth』を設置。「水に反射する光が空間に生み出した虚像としての彫刻は、常に存在し、また常に変わり、まさに私がいつも芸術にたとえる反逆の巨鳥そのものである」(ジョン・カンディド・ガルボン/ゼネラル・キュレーター)
1992
[Seoul-Tokyo-New York] Art Projectとして、ソウルでのアート・フォーラム、東京でのシンポジウム「アートと行為のネットワーク計画書」を開催。「『それぞれの、あからさまな地球』に、今、自由な精神は耳を傾けている」と、語りかける。
1993
『水の本』『大地の本』プロジェクトを開始。奈良・天川村では、12の水からなる『水マンダラ』を造り、12冊の『水の本』を制作。開発が進む千葉ニュータウンでは、大地を鉄枠で囲んだ『大地の本』で、土地の歳時記をクローズアップした。「アートをエネルギーと考え、作品はエネルギーの変換機構ととらえる」
1994
「アジアに固有な/アジアから地球的な」アーティストたちとのネットワーク、「アジア・エッジ」の基盤づくりのために、アジア各地を回る。バンコクでは、「日本の現代芸術運動」展の中で、『Waterhenge環状水柱群』を製作。西欧的なストーンヘンジに象徴される「fixed relation 固い構造」に対して、それぞれが自立しながら相互に連関する「relaxed relation 柔軟な関係」の重要性を提案する。
1995
国連50周年記念アートカレンダー[The Message: We the Peoples--]の「世界の12人のアーティスト」に選ばれる。『The United Waters』の重要性を訴える。
米サンタフェ現代アートセンターでの「エコ・アクティビズムの共働戦略」展で、「The United Waters」を野外インスタレーションとして永久設置する。
1996
国際アートフォーラム「アジア・エッジ1996/東京」を開催。「waterhenge」の力学、「自立したムーブメントが、いかに柔軟に連携するか?」を問う。このネットワーク観から、アジアでの共働プロジェクトへと展開。そのひとつとして、タイのアーティスト、カモン・パオサワットとのコラボレーションとして、3ヶ月間の多摩川プロジェクトを実現。全合流点を踏破し、河口と源流の間を往復する旅を描いたビデオ『WATER MAN』を発表する。
1997
東シナ海、琉球列島を間に挟んで、北と南に位置する加世田(鹿児島)と台北(台湾)で、同時に野外プロジェクトを展開。琉球列島を含む全域を、円弧状の(Arcing)水の方舟(Ark)に見立て、両端の加世田と台北で船首を製作し、設置する。壮大な想像力が国境を越えて拡がる『Arcing Ark 水之方舟計劃』がスタートする。
1998
鹿児島県加世田で、初めての『Water Market 水市場』を開設する。合流点や用水路に『水取小屋』を、家畜市場を『水市場』に、古い石蔵を『水蔵』に変容させ、市内に「未来のための水の流れ」を創り出す。
1999
香港島を対岸に望むヴィクトリア湾のそばに、『香港水市場』を開設。香港科技大学での清水湾に向かう『大箭ー水舟 Big Arrow』、マニラ湾のヨットハーバーに対抗した『Water Ark Harbour 水之方舟港』を、連続的に展開。アジア各地で、現実の水域と「IKEDA WATER 池田ウオーター」が大接近する。
薩摩半島を横断して東シナ海に注ぐ全長35kmの万之瀬川流域の1市3町がそれぞれの独自性を発揮して連携した『万之瀬川アートプロジェクト/水駅伝』プロジェクトを実現。その広域な環境アートは、世界で話題を読んだ。
2000
未来のための水の会合である『Big Hands Conference』を、水の都バンコクで開催。バンコク日本文化センターでのパフォーマンスを目撃した沖縄からの参加者は、「---次に意表をつく池田氏自身の水言語が発せられると、誰もが驚きの声を発し、異様な興奮のるつぼに包まれて行ったのである。」(佐藤文彦、沖縄県立芸術大学非常勤講師 バンコク体験記より)
「水というレンズと、アートというレンズを重ね合わせると、環境アート教育の重要性が明瞭になる」。この信念から、初めての『WaterArt Lesson 水アート教室』を、鹿児島県知覧の麓川の川中で子供達のために開く。
2001
アジア各地での「未来のための水創りネットワーク」の要として、池田一の沖縄での活動を支援する「水の沖縄プロジェクト」が発足。「沖縄・水/アート・フォーラム2001」展を開催。池田一は『沖縄・水チャンネル』というインスタレーション展示とパフォーマンス『最初の晩餐』を発表。「---万物の根源といわれる水のアート。この奇異な発想を具現化して、世界における独自のアーティストとして確固たる地平を切り開いたのは池田一氏であった」(佐藤善五郎/那覇市文化協会事務局長、[沖縄タイムス]2001.3.28号)
2002
「アジア・水/アート・チャンネル AWAC」構想のために、インドネシア各地でのプロジェクトを実施。ジョグジャカルタでの展覧会、バンドンでの講演、ジャカルタでのワークショップを通じて、「水主ムーブメント」への参加者が拡大した。
日本で一番古い多目的ダムで知られる相模湖の湖畔に立つ相模湖交流センターとのコラボレーションによる2ヶ年事業を展開。『水の家-最初の晩餐』は、「未来のための水創り」センターといった拡がりを持っていた。
2003
京都で開催された第3回世界水フォーラムにおいて、始めて『80リットルの水箱』を発表。フォーラムの会期中に勃発したイラク戦争を扱う「水フォーラム新聞」では、池田一の『80リットルの水箱』写真が、「彼らの手に未来を」と訴えるキャプションを付けて掲載された。
相模湖で、2年目のプロジェクトに。実際の空家を借りて、『水の家』として機能させる。現実の時間をアートが変革していく試みである。
2004
東京の北に位置する川口で、閉鎖された都市河川の再生プロジェクトを開始する。両端の水門が閉鎖されて、一部ドブ川化した全長約5.8kmの芝川に架かる17の橋から、「芝川は17の水箱の連なり」という仮設を提示して、鳥瞰図法ではなく、『水瞰図法=Water’s-Eye View』という新視点を、具体的に表示した。
2005
「GROUNDWORKS」展(カーネギーメロン大学、ピッツバーグ)には、世界の環境アートシーンをリードするアーティストやグループが結集。世界各地の活動の間のネットワークや環境アート教育の重要さが確認された。
ニューヨーク州の西、フィンガーレイクスの畔にある南セネカ中央学校で水のシンポジウムを開くのに、中学生たちが世界の中から選んだのは、他ならぬ池田一であった。コーネル大学東アジア研究所の支援で、『Big Fingers Conference』を実現。
2006
家の壁にいまも生々しい弾痕が残るサラエボの、雪景色。「サラエボ・ウインター2006」に参加し、The United Nationsならぬ『The United Waters』なる作品を発表。国単位ではなく、人単位の連帯を訴えて、野外プロジェクトへと展開した。
鹿児島でのアートプロジェクトが復活。枕崎を流れる花渡川での3日間のアートイベントとして、『Moving Water Days』を展開。初年度は、「80リットルの水箱」を背負って、上流、下流を往来する集団パフォーマンスを実施した。
2007
巡回展の招待出品が、相次いだ。平和のあり方を問う「The Missing Peace: Artists consider Dalai Lama」は、ロサンジェルスを皮切りに、世界10都市を巡回。世界環境デイ展「Envisioning Change」は、ノルウエーのオスロから、ブリュッセル、モナコ、シカゴへと。国内では、「空間に生きる-日本のパブリックアート」展が、札幌から、東京、福井へと。池田一の、さまざまな顔が引き上げられていく。
花渡川での『Moving Water Days』の、2年目は、竹で100メートルの筏を造り、川を下る、『100mの水筏が南方に向かう日』。未来のためのアートを志向する重要な起動力である。
2008
ニューヨーク国連本部でのセミナーと展覧会に、世界から選ばれた7人のアーティストのひとりとして、参加。「Unlearning Intolerance」のセミナーでは、環境とアートを結ぶ、これからのパースペクティブとして、『Water's-Eye View 水瞰図法』について、スピーチを行った。国連の最優先課題である環境問題への取り組みに、アーティストをパートナーシップとして組み込んだ、画期的な出来事だった。
インド・デリーでの、初めての国際パブリック環境アート展「48℃ Public. Art. Ecology.」に招待出品。水源であるヤムナ川の実態調査から始めて、クメール王朝の水路跡に、『WATERPOLIS: missing or promising ?』を設置した。
2009
カナダのオンタリオにあるロイヤル植物園での「アースアート展」に設置した『Future Compass: rooted water 未来羅針盤:多根の水』は、未来のためのアートとして、大きな評価を得た。「このコンパスは、望むべき未来への旅のための新しく信じがたい方向性を提示してくれるマーカーであり、サインであり、指針である」(ジョン・グランデ/キュレーター)
中学1年生との川口でのアーティスト・イン・スクール『未来の方舟』は、水問題の重要さが認識され、91%の生徒が自分の意識、行動に変化があった、との報告。環境アート教育のモデルに。
「新潟・水と土の芸術祭」に、招待出品。「水と土の長い闘い」の歴史を象徴する、二つの川が立体交差する地点に、『WATERPOLIS 水系都市』のひとつとして、『水見台団地水抜き通り』という全長500mの作品を設置した。
2010
鹿児島・枕崎からの「村丸ごとアートにしてくれんか!」という依頼で、木口屋集落という限界集落を,未来志向の集落に変容させるというビッグプロジェクトが始まった。集落全体を、『地球の家』ととらえ、集落の中の段丘や空き地などに『地球の家の住人』のためのコミュニティ・スペースを造ることにした。
アジア各地で展開してきたアートプロジェクトを連動させる『アジア海流文化圏構想』を、秋葉原のギャラリーのオープニング展で発表した。
2011
枕崎市の木口屋集落での『地球の家』プロジェクトが完成した。三段に連なる段丘には、大きな船のイメージの『矢形の水広間』を。かって花見を楽しんだ丘には、新しい祝祭空間『天空の間』を。樹々に囲まれた空き地には、自然の多様性を学ぶ『緑の書斎』を。老人会の会長の言葉、「池田さん、何より大事なのは変化だよね」。
世界一のカルデラを誇る阿蘇での「GENESIS 起源展-2」に、招待出品。福島第一原発事故の直後から、関東を中心に各地から移住してきた人たちと協働して、竹と茅から『平和へのL字線分』を制作した。そして、最終日には、鎮魂の祈りを込めて、点火し、『L文字焼き』を実現した。
フィンランドのポリ美術館で開催された「エコアート」展は、1960年代のランドアートやアースワークからの約50年の歴史を回顧し展望する重要な展覧会である。そのい歴史を創ってきた19人の中に選ばれ、現代を代表するアーティストとして、展覧会のポスター、カタログの表紙に、作品『Five Floating Isles』の写真が使われた。
2012
東京都から、第29回全国都市緑化フェアTOKYOのメイン会場・上野公園の不忍池での環境アートプロジェクトの要請が来た。百年に一度あるかどうかというビッグ・プロジェクトを、ボランティア主体で取り組み、公開説明会、川口でのパーツ制作、不忍池畔の作業ヤードでの組立て、ヘドロが溜まった池の中での設置作業をやり遂げた。中学生、デザイン専門学校生、留学生なども作品制作に参加し、500人以上の想像力が集積した作品『5 Greensvapes不忍・緑・五景』が完成した。
南阿蘇は、7 月 12 日の猛烈な集中豪雨で、死者も出る甚大な被害を被った。私に出来ることは何かと考え、倒木らを使って、『地球のための休息台&100 人分の安息枕』という作品を造った。この地には、アースアートの新しい展開、発信を促すものがある。
2013
シンガポールの有名な観光地、Marina Bay SandsにあるArt Science Museumの蓮池で、代表的なパフォーマンス・シリーズのひとつ『Water Mirror水鏡』を26年ぶりに発表した。近代化が急速に進むスピードに、人間の歩みを合わせているように思えるシンガポールでの、「人に起源ありき」のメッセージ表現であった。
「アースアート・ミュージアム」構想の実現へ。「造るのではなく、自然から作品を出現させる」ということで、道端に見捨てられた7つの切り株から、『未来形の七福柱』を出現させた。
2014
月刊デジタル・アートマガジン『Earth Art Catalog』を発行。個人のデジタル・アートマガジンは、世界にも殆ど例がない。1984~2014の約30年間の活動の全貌が、全12巻に。歴史に残る貴重な資料との、評価が高い。
阿蘇でのGENESIS-5展では、阿蘇の自然素材を使って、『大地のジャバラ本<人湧く国:最初の晩餐>』を制作し、発表した。根子岳をバックに立つジャバラ本の中に入り、誰でもが本の登場人物になれる。作品への参加の自由は、アースアートのひとつの特徴となるだろう。
2015
メルボルンのRMITギャラリーでの「福島以後の日本のアート」展に、阿蘇での原発事故以後移住してきた人たちとの協働プロジェクトをベースに再構成した『Time Shelter』を展示した。
イタリア・南チロルにあるトラウツマンスドルフ城公園からの依頼で、真ん中の池に『Water Blooming』を設置した。南アルプスの山々をバックに、万物の源である水が開花し、人も植物も動物も開花するという願いをこめた作品である。
阿蘇アースアート・ミュージアム構想も、5年目。10年後の2025年に浮上することを期して、阿蘇フォークスクールの校舎を抱きかかえるようにして停泊中の『緑の方舟<阿蘇2025号>』の船首・船尾を制作、設置した。
2016
解体直前の元鋳物工場(川口アートファクトリー)を、床面に水を張った『Water Room』に変貌させた。その中で、『平和のための水奏楽団』を上演した。
世界自然遺産の島・屋久島へと、アースアート・プロジェクトは展開。水のアーティストの本領を発揮して、屋久島の水系を調査して、天からの水が島をおおう、世界でも稀な「天水の島」だと発見。「天水の島アートプロジェクトを立ち上げる。春田浜では『水神宿る家たちよ!』を設置。安房港では、飛び魚漁漁船による『水主最前線の動く日』と題した「水を守れ!」の海上パレードを実現した。
2017
[Art Crossing創刊号]の特集は、「池田一と水たちよ!」。その創刊記念イベントでは、サウンド・セッション「空観無為」との『Water Orchestra 水奏楽団』を発表した。
屋久島での2年目は、春田浜と宮之浦川の2箇所での『円水の塔』プロジェクトを展開。宮之浦川での、2つの橋の間の川面を使っての展示では、潮の干満の影響で、カヌーや漁船を使って悪戦苦闘。保育園の子供たちや老人会のお年寄りの「水を未来に送り届けようという手」の写真が川の中で浮き沈み、まるで生き生きした「川の水を汲み上げてる手」が出現した。アースアートの「出現するアート」の一端である。
春田浜での『円水の塔』の中で、朝昼晩、それに日の出時に断続的に行ったサウンド・パフォーマンス『Water Orchestra』は、かってない実験的な試みが高く評価されて、CD盤も発売された。